凸凹母のぶっとんだ幼少期

その他日々こと

今日は自閉症スペクトラム症の子供たちを育てる私(母)の

幼少期について語ります(‘ω’)ノ☆

自閉症スペクトラム症は遺伝の場合もあるとよく言われていますが、

私(母)も主人(父)も診断はされていません。

ただ、私は息子を見ていると自分の幼少期を見ているように

思える事が多いし、お義母さんから聞いている主人の幼少期に

娘が似ていると思うことが多々あるので、

父母どちらも少なからずその特性はあるのかなと思っています。

物心がつく頃(5~10歳くらい)

幼稚園の頃は木登りや高い所がとにかく好きで

よく平屋の幼稚園の屋根にいました(笑)

藤のつるを伝って上がって行っていたのですが

よくそこで、校内放送で「お母さんが迎えに来ています。」と

呼ばれていたのを覚えています。

また、小学校1・2年生でもそのクセは抜けず、授業をよく

抜け出して高い木を登り、2階の教室のクラスの子が受けている授業を

眺めて過ごしていました。

みんなの精神年齢が上がってしまうので浮いてしまい、

誰も授業中外に出る子はいなくなり、つまらなくて

小学校3・4年生は授業中ただただ寝て過ごしました。

いつの間にか給食時間、いつの間にか下校時間でした。

5~10歳で一番記憶に残っているのは

小学校2年生の時クラスで飼っていたウニを

先生が食べたことでした・・・(;゚Д゚)

生き物係だったので朝学校に行くとお世話が

ルーティーンだったのにいなくなっていたので

先生が来るまで半泣きで探していたのですが・・・

朝先生に

「死にかけてたから持って帰って食べました。美味しかったです。」

と言われて、ビックリしすぎて涙も出ませんでした・・・(=゚ω゚)

小学校5・6年生の頃から

小学校5年生から、当然のようにそれは始まりました。

今思い出しても陰湿なイジメでした。

最初の頃は

「あれ?なんか顔色悪いよ?保健室行きなっせ。」

と毎日教室から閉め出されました。

トイレに行くと私の個室はいつも開かなくなりました。

そのまま授業が始まり1時間トイレにいることもありました。

学校が楽しくないので行かなくなりました。

でも、不登校の友達と遊んだりして、あくまでマイペースでした。

学校に行かないので塾に入れられ、そこでも友達と楽しく過ごしました。

中学は優等生の兄がいたので先生が守ってくれていじめられませんでした。

でも高校生になるとトイレに入ると悪口やバケツ・ホースの水が

上から降ってきました。

でも、もう慣れていました。

先生に「なんで体操服着てるんだ?」と

聞かれても「なんかトイレの上から水が降って来たんですよ~」

と言うと「あぁ~そっか~」くらいで先生も関わりたくなさそうでした。

人のまねをして普通に溶け込む?

小学校から高校生になるまでで、自分が愛想笑いが出来ないことに気づき

だからイジメられるのかな?と、鏡でよく笑顔の練習をしました。

口元だけだと怖いと言われたので、目も少し細めたりしてみました。

しゃべり方も、敬語のみでアクセント(抑揚)がつけられなかったので

まずは「だけん」とか「~ばい」、「~じゃなかと?」などを

つけてみました。

今でも意識して熊本弁を話すようにしています。

大人になると敬語しか話せなくても困らなくなりました(*^_^*)

立派な普通

そんな思春期を過ごし、今では立派な「普通」が定着しました。

1番目にはならない、3番目くらいで。

普通の人が普通に出来る事が出来ないし

常識が何か分からないので、療育の先生や学校の先生に

他の人がどうするのかを聞いた上で答えを出すようにしています。

自分が色々失敗ばかりしてきたからこそ、子供達には

苦しい遠回りはさせたくないなと思ってしまいます。

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